bigboss1213のブログ

いちオタクによる雑記

"All too well"なTaylor Swiftの魅力

"Cause there we are again in the middle of the night
We're dancing around the kitchen in the refrigerator light
Down the stairs, I was there, I remember it all too well, yeah"
(だってまたあそこで私たち真夜中に出会ったから
開いた冷蔵庫から漏れでた光のもと一緒にキッチンで踊ったこと
階段の下、確かにあの場にいた
いやなくらい鮮明に覚えているの)

 

 

歌詞だけで、こんなに心を掴まれてしまうのははじめてだった。

暗闇の中、冷蔵庫から漏れ出た光だけで踊る恋人たち

なんてロマンチックで、それなのにどこか儚げに感じてしまう。


この一節は、Taylor Swiftという底なし沼に落ちるには十分すぎるほどだった。

 

ご存知の方もいるかもしれないが、冒頭の歌詞は、Taylorが2012年にリリースした「RED」に収録されている"All too well"という曲の一節で、二番のサビでもある。シングルカットされていないもののファンの中では名曲として愛されているうちの一つなのだ。

 

曲名の通り、"十分すぎるくらいに”覚えてしまっている元恋人のことを歌ったこの歌。

 

木の葉が散る中でのドライブ、そこで道に迷ったこと、相手に見惚れていたら信号無視をしていたこと、二人訪れた昔ながらの小さな街、母から聞いた彼の子供時代のこと、チェック柄のシャツ、そしてまだ二人が幸せだった頃を象徴するスカーフ
これら小さな点たちが繋がり、一つのセンテンスとなり、そして曲を通して二人の物語が浮かび上がってくる。

本当に好きだった、最高な恋だと信じて疑わなかった、だけど今はもう隣にいなくて、それなのに鮮明に覚えているあの人、あの秋の恋。
歌詞を見ながらじっくり曲を聞いて、素直に綺麗だと思った。

 

だって、誰が冷蔵庫からの光だけを頼りに踊るの?

冷蔵庫は開けたら閉めるものでしょう?

暗闇でテーブルの角に足の指をぶつけてしまいそうだとか考えない?

そんなちっぽけなことなんて気にやしないくらい、二人の世界があのキッチンには広がっていたのだろう。

そう思うと、お互いしか目に入っていないことを冷蔵庫の光でこの人は表したのかと心が震えた。
なんて表現なんだ。なんてリリックを書くんだ。

 

こういうところが好きで、ああやられたといつもTaylorの書く詞を見て思う。
ほんの1行の詞から受け手はこんなにも想像をかき立てられる。
その想像がTaylorの恋の事実なのかそうではないかなんてこの際どうだっていいのだ。

(Taylorはよく自分自身の恋を投影した歌を作っていて、どの恋人との経験談なのかメディアではよく騒がれている)
だってこれは彼女がわたしたちファンに贈ってくれた歌であり、物語であり、フィクションでもあるのだから。

 

歌詞には世界中のファンそれぞれの解釈があり、そして英語から日本語に訳す時点でも解釈が何通りもわかれる。これはある意味当たり前のことで、英単語のニュアンスは完全に日本語には置き換えられない。

そんな、人それぞれの解釈をファン同士で語り合う。この表現いいね、"2am"またでてきたね(Tayは歌詞にときたま時間軸を入れるが、圧倒的登場回数堂々第1位が2amなのだ。)などと歌詞について存分に話す。こんな時間がわたしは大好きだ。多種多様な和訳を見聞きしつつ、そんな解釈あったの!素敵か!と、自分のものと比べてさらに彼女の歌について造詣を深めていく。

 

Tay自身が作詞しているからこそ、生の言葉でわたしたちに見せてくれたもの、伝えたかったものはなんなのだろうかと想う時間、これはファン冥利に尽きる。

ああ、彼女と、彼女の歌に出会えてよかったなとしみじみ思う。

 

 

さてここで、もうすこしだけ、"All too well"について深堀りしていこう。

冒頭の一節以降、曲後半では二人の関係に暗雲が立ち込める様を描いている。

別れた彼から荷物は全て送り返されたのに、たったひとつだけまだ彼の手元にあるスカーフ
それはまだ別れなんて想像もしていなかったあの幸せな日々を思い出させるものであり、ふたりがまだイノセントだった頃の象徴ともいえるものをまだ彼がもっているのはきっと捨てられないからで、あなたもいやになるくらい覚えているのね

と歌いあげる姿に震えた。

 

幸せなあの頃とは一変二人の関係が崩れ去っていく、そのさまにも魅了され、恋愛は壊れていくところも綺麗で無垢なものなのだと、そう感じた。
はじめてこの曲を聞いた時当時中学2年生だったわたしには、この物語は体験したことのない未知の世界であり、大人になればこういうシチュエーションに出会うのかな、いい歌詞に出会えたなと。
そう、別れは綺麗でも無垢なものでもないのに、憧れのような感情を抱いたのはわたしが知らなかったからだ。

 

歌詞の纏う雰囲気がど真ん中ストレートを貫く歌に出会えた時これを好きの第一波とすると、前述のあの一節に出会えた時、わたしは好きの第一波を確かに感じた。
そして、第二波は歌詞に「共感」したとき訪れるとわたしは考えている。ことTayの歌に関しては、の話だが。

 

そして、失恋を経験して歌詞を改めて聴くと深みが増したように感じた。めちゃくちゃ共感してめちゃくちゃ好きだと思った。好きの第二波だ。

別れは綺麗でも無垢なものでもなくて、切り刻まれた痛みは鮮明に覚えている。時が経つのは早いというが覚えている限り全然そんなこともない。そしてまた愛することは燃えるような赤かもしれないが、破れた恋に思いを馳せることもまた秋のような暗くて寂しい赤なのかもしれない。

だからこそ、この曲は『RED』というアルバムに収録されているのかもと、そう思えたのだ。

 

これは共感していないと辿りつかない解釈であり、この想いを知れてよかったとも思う。別れも案外悪くないのかもしれないとポジティブにも感じることができた。

曲の解釈を幾重に広げてくれる、そんな楽しさを実感した瞬間だった。

 

 

この好きの波云々については"All too well"に限った話ではなく、Taylorが創造する歌すべてにおいて、自分が共感してはじめて曲の魅力が最大値になるように思う。

 

誤解を招きたくないのでいうが、前提としてどの歌詞もわたしは総じて好きだ。
もちろん曲に沿うような体験なんかしなくたって、Tayの書く詞の繊細で張りつめたような空気感と、内に秘めた燃えるような激情(たまに隠しきれず全面にでているが)など歌詞に込めた想いを感じるし、こんな表現するなんてどんな天才なんだと頭を抱えることもしばしばある。

 

ただここで私が言いたいのは、「共感」がさらに曲への解像度を高めるということだ。

 

曲に描かれているシチュエーションそのものを完璧になぞった体験をすることを「共感」と定義するわけではない。 詞に描かれている感情を確かに知っていると思った時、「共感」するのだと思う。その共感する気持ちの対象が恋愛だろうと友情だろうと家族愛だろうとなんだっていい。Tayの曲は恋愛を描くものが多いが、その歌で友への気持ちを重ねたっていい。対象はなんだっていいのだ。

 

「ああこの気持ち知っている、この歌詞はわたしの歴史だ」

そう思えたのなら、また違った世界へTayは連れていってくれる。

どんな経験にでも寄り添ってくれる。

これからもまだまだ様々な経験をするだろう、その時々にごはんのお供のようにいつだってTayの歌はそばにあるのだ。